青猫情市朗の軌跡
もうすぐ年も越そうかというほどの寒さだった。まだ11月に入って間もなくなのにとても寒い。常会はたいてい深夜前からはじまり、日の出前には終わる。とてもつまらない集まりで気はすすまなかったが新入りということもあり毎回出席していた。内容といえば流れの話題、おやっさんの新しい女のこと、出物の意見交換、そして〆は優勢順位についてだった。何度もあくびをこらえながら、時間が経つのを待った。
ほとんどおやっさんが居眠りを始めたら解散になる仕組みだ。
「おい 新入り、情市朗とかいったな おめえさん生まれはどこだい」「へえ あっしは物心ついた時には既に流れもんでして生まれも出生日時もわかりやせん」「ふん 可愛そうなヤツよの わしなどは一時はふかふかのソファーでよグラスにディナー 健康茶 消臭機つき厠なんでもかんでもよ」「それはそれはおけなるい」「栄養失調でそんなけったいな毛色になったんではあるまいな え? がははははは!」
周りのいけすかんチンピラどももその言葉にキキキと笑った。「おやっさん これでも小生気に入っておりやす」「そかそか かってにしたらええ あほうはあほうのままお陀仏ニャー てか」チンピラがまたキキキと笑った。
「ところで お浜よ 最近この青猫と随分お仲がよろしいこってブンが夕べお前さんとその新入りが仲良く美し松の枝にいたと申しておったがの しっかりと身分ちゅうもんを承知しなされやだいたいおまえさんは」「おやっさん!」隣にいたお浜さんが口を開いた。「おやっさん いえ旦那様 旦那様には本当に感謝しております。このお浜忠誠を忘れたことは一切ございません そして今後もずっと」「ふふふ そんな貧しいひょろひょろいつでもブンにしめさせまっせ ご注意なされませや お浜」今夜はより気分が悪い常会だ。確かにここのところお浜さんには随分世話になってる。出物場所をおしえてもらったり、わけてもらったり。キモチがお浜さんにあることも事実だった。お浜さんのおココロはわかりかねるが。
東の空がうっすらと白み始めた。しばらくあーでもないこーでもないとつまらん話しをしていたおやっさんは案の定うつらうつらだ。一人 二人とぼつぼつと場を去り始めた。「ジョー お先失礼するよ 嫌なキモチにさしちまったね ごめんしとくれよ」 「おやすみやす お浜さん」不細工なツラで眠るおやっさんをしばらく見ていたがそろそろ引き上げることにした。「では」歩きかけたら後ろから声がした。「一人歩きには十分ご注意を」振り返るとおやっさんが寝返りをうった。「へえ ご忠告ありがとやんす」今日も綺麗に晴れそうだ。忙しそうにからすが列をなして飛んでいった。
常会に参加しなくなり随分たった。どうせいろんなことを言われてるんだろう。陰険なおやっさんのことだ、あることないことをほざいているに違いない。しかしもう関係ない。そのうち俺のことなどみんな忘れてしまうだろう。どうせ流れの身この世界でなくすものなど何もない。あるとすれば生き別れた弟のことだけだが今は何もわからない。ここ最近出物場にも行ってないから数日間何も食べていない。薄っぺらな腹が音をたててなった。
そろそろここも離れないといけないな。気に入ってた茂みだがここはおやっさんのシマだ。ケジメはしっかりつけないと。大きな石垣があり、ため池もあるここは朝方大勢の人間が走る以外はいつも静かで安全だった。しばらくお日様で暖まってから、寝床をばらばらに壊した。匂いも残らないように土をかけた。もうここに来ることもあるまい。さてと 風はどっちだ。「ちょいとお前さん」背後から声がした。「お浜さんか」「さっきから見てたけど、どっか行っちまうキモチだね」「もう随分ここには世話になりやした あっしは生まれながらの流れでして」「この辺りほとんど流れだよ 多分、組のことだね?」
「いえいえ そんなことはございやせん みなさんには随分と世話になりやしたし ありがとう思ってやす」お浜さんはニヤッと笑って空を見上げた。「ジョー ちょっと厄介なことになってねえ」お浜さんがつぶやいた。「厄介 ですか?」「ほら まぬけのブンがさ やられちまってね」お浜さんは何か言い辛そうに目を閉じて、続けた。「お前さんにやられたって言いふらしてるんだよ」「あっしじゃごぜえやせん!断じて」「知ってるよ 昨夜ここ通りかかったらアンタ気持ち良さそうに眠ってたもんねえ」「え? いえ それにブンさんには特別恨みなどごぜえやせん」「そうだろうよう あたしゃよくわかるよ」
片目を爪でつぶされたブンはよたよたと帰ってきて、おやっさんや他の舎弟にいきなり俺が現れて噛みつきやがったとふれてるらしい。
また手の込んだことを・・・おやっさんのことだ、自らブンをやっといて俺にやられたと言えとでも仕組んだんだろう。そんな回りくどいことしなくてもこんなシマ出てってやるのに。しかし厄介なことになった。それを知った舎弟は俺を放ってはおかないだろう。まあ特に帰るとこなどない俺だが厄介な喧嘩ごとは御免被りたい。さっきまで暖かく晴れてた空がココロに同調してか急に暗く
寒くなった。「夜まで待ったらどうだい」お浜さんが心配そうに見つめている。遠くで犬がないている。早速来やがったかな。
「お浜さん、随分世話になりやした。ご迷惑もいっぱいかけてしまってこのご恩は絶対に忘れやせん。ではこれにて」お浜さんはもう何も言わず、頷いただけだった。犬が吠える方向を避けて行こうとも思ったが気が変わった。もしも舎弟達と出くわしても、今の体力ならば負けることはないだろう。それに変化していくことはこの宇宙の唯一の定数だ。一気に頭をとってやろうか?取り巻きは多いが皆大したことはない。おやっさんを一気におさえて、このシマを仕切るのも悪くない。そうすりゃお浜さんだってもう少しましな待遇にしてやれる。いろんなことを考えながら大きな建物の角を曲がった。少し先にうずくまっている輩がいる。ブンだ。可哀想にすっかりしけこんでいる。気付かれないように身を低くし、近づいた。
間抜けなブンはまだ気が付かない。「兄さん」 一瞬、ブンは後ずさりすぐにまたうずくまった。「ジョーか こんな身体にしておいてもまだやりたらねえか?こんな俺の息の根を止めたところで何の自慢も出来んぞ」「何を言ってる?ブン」「ふん やりたけりゃやればいいさ どうせもうまともには生きていけん 狐にでも出くわしたらすぐにやられちまうさ」
「やりたけりゃ さっさとやれよ」そう言ってブンは残ってる目をゆっくり閉じた。「失礼しますよ お世話になりやした」うずくまったままのブンをのこして低い塀に沿って歩いた。遠くで人間のおばあさんが立ち話をしている。もうすでにこの辺りには人間が沢山いる。駐輪所を左に曲がり、肉屋の裏に出た。
ここは良質の出物場でお浜さんに教えてもらった場所だ。「うわっ ジョーの奴が出やがった!」急に前方から声がして、慌てて散った。舎弟の二人だ。
「おいっ まて!」「うわー ジョーだ ジョーだ!」二人の姿は雑草の中に消えた。なんだ一体、どうなっちまった?今までだとおやっさんの真似をして俺の毛色をはやし立てたのに。何かがおかしい。しかし巧妙な罠かもしれん。あたりを注意しながら二人が手をつけていない出物を頂いた。まだ明るいはずの時間だが、ますます薄暗くなってきた。一雨来るかな?お浜さんの言う通り、夜まで待った方が賢明かもしれない。
しかし、そうもしてられないな。少し前から視線を感じていた。おやっさんか?いや違う。おやっさんの気配はここまで強くない。まったく気付かぬ振りで、目を閉じた。俺の残した出物を狙ってカラスが喉を鳴らしている。小賢しい連中だ。強い気配が一瞬、すぐ側まで来て、そしてゆっくりと去っていった。
遠くでまた犬が吠えだした。肉屋からは人間の大きな笑い声が聞こえた。
雨こそ降らなかったが、薄暗くなった空はその後明るくなることはなかった。一応人間や車に注意しながら、もと来た道を戻った。ブンはさっきの場所から少しだけ離れた場所で眠っていた。多分一雨来ても今のブンはそのまま動かないだろう。そんなことならすぐに風邪をひいちまう。俺たち野良にとって風邪は
致命的だ。ブンに声をかけようとそばに寄った。「ブン」うずくまったブンの身体の下には美しい織物みたいな血液のたまりが出来ていた。目はうっすらと開いて、白目をのぞかせていた。死んでる。左耳の下から喉にかけて、はっきりと切り口がみてとれた。「狐か?人間か?」まさか、この辺りには脅威になるような狐は出ないし、人間は間抜けで優しい。それにいくら憔悴してるといえどブンが
人間に捕まることはあるまい。心が痛んだがブンはそのままに、肉屋の裏に駆け戻った。手下に知らせないといけない。また俺の仕業にされるかもしれないという小さな器のキモチも少しあった。肉屋の出物場に二つの影が見える。俺の残したところだ。「おい お前ら」もう手下達は逃げ出すことはなかった。同じく赤い織物の上ですでに息絶えていた。「どうしたことだ これは」 お浜さん! ねぐらに向かって走った。
「お浜さん!どこですかい?お浜さん!」出かけにバラバラに壊した寝床を勇気を出してのぞいた。毛並みが見えたのだ。枯れ草や枝が散乱したその上でお浜さんが丸くなっていた。遅かったか。「お浜さんよ」もう一度声をかけた。一瞬大きく引きつって、深く息を吐き出しながらお浜さんが目を開いた。「お浜さん!大丈夫で?」「ん?ジョーかい 戻ったのかい いやいや
恥ずかしいね〜 すっかり眠っちまったんだね」そう言うとお浜さんはお背なを丸くとがらせて、全部の髭を前に突き出しながらあくびをした。「ブンと手下が何者かにやられたみたいで 死んでたんですよ」お浜さんは特に驚く様子もなく、遠くを見つめて細く息を吐き出した。「何者だろうね」そういうとお浜さんはまた目を閉じた。不自然な気もしたがお浜さんが無事にいてくれたことがうれしく、疲れが心地よく、少しその場で眠った。
もうすっかり日も落ちてあたりは夕闇に支配されていた。少し先で大きな車が慌ただしく走ってきて、激しく止まった。ちょうどブンがいたあたりだ。きっとそのまま連れていかれるんだろう。決して好きな奴ではなかったが同種として心で手を合わせた。お浜さんはそのまま気持ちよく眠っている。ここは安全だろうが俺まで眠っちまうのは危険だ。逆に夜になってしまった
ことが悔やまれた。夜の雲は全ての星を覆い隠したままだった。
いつの間にか眠ってしまったようだ。すでにお浜さんの姿はなかった。寝床はキレイに片付けてあり、まだ少し温かい。つい今しがたまでいたんだ。石垣の周囲を沢山の人間が走っているのを微睡みながら見ていたが、急に昨日の忌々しい記憶が蘇った。のんびりなどしていられない。ブンや手下のことをおやっさんに知らせないと。身体についた枯れ草を簡単に払って、駆け出した。ブンがいた場所にはまだ赤い敷物が敷かれていた。駐輪所から覗くと肉屋のおばさんが手下の亡がらを段ボール箱に寝かせていた。さほど広くはないが車の多い道を横切り、民家を脇を移動した。小さな畑を越えたらすぐにおやっさんのねぐらがある。だが民家の石塀を曲がってすぐに止まった。沢山の手下が畑の入り口や、その先の小屋の上で見張っている。各所に二匹だから、これは厳戒態勢だ。このまま行けば、多分厄介なことになる。「なんとか直接おやっさんに会えないものか」石塀に飛び乗り、屋根に移った。このままつたって行けば、ねぐらの真上に出るはずだ。手下とはち合わせしなければいいんだが。ゆっくりと慎重に進んだ。コンクリートからトタン葺きに変るところは要注意だった。下で手下達がひそひそ話している。「おい お前しってるか ここのところの荒らしはジョーの奴の仕業らしいぜ」「おう 知ってるよ ブンの兄貴もかわいそうによ あんなに弱ってたのにとことんやりやがる」「どちらにせよ気をつけた方がいい 化けもんみたいに強くなってるらしいからよ ジョーのやつ」(ちっ だから俺じゃないって)沈み込むトタンを抜けて、瓦になったところで一度歩をやめた。もうすぐでおやっさんのねぐらの真上だ。どうする?やはり
全部俺の仕業になってる。おやっさんに会うのはよして、一度戻った方が賢いにちがいない。ゆっくりと身体をもと来た方へ回しかけた時、おやっさんの声が聞こえた。「しかしな、わしも落ちぶれたもんよ あんな野郎に振り回されてよ ねぐらから出られんなんてな 心で笑うておるだろうが お浜」(なに! お浜さん いるのか)「いえいえ 笑うだなんて めっそうもないただただ、旦那様のお命を案じておりまする」「ふう しかし疲れる ぐるりを子分共が取囲んでいるとは言え、不気味でならん 一体どうしちまったんだ青猫めが」「ん〜 もともと 隠しておりましたかね?おのお兄さん 間抜けな振りをしていただけかも もしそうだとすれば一体何が目的でござんしょ」(何を言ってる!? お浜さん)すっかりと心が凍り付いた。目の前が真っ暗になった。さてこれからどうする。
音をたてないように、慎重にもと来た方へ歩き出した。気を抜けばトタンがきしんでばれてしまう。ようやく瓦屋根までたどり着いた時、昨日肉屋裏の出物場で感じた強い気配をまた感じた。明らかにこちらを見ている。どこだ?一体。この気配の強さからいって、半端な奴ではない。やられてしまうかもしれない。今度は目を閉じずに辺りを見渡した。誰もいない。気配はゆっくり離れて、また消えた。抑えきれ
ない恐怖心を無視して、動き出したその時、下から手下の叫び声が聞こえた。「ジョーだ! ジョーが出やがった!」しまった、見つかったか。一瞬目を閉じて振り返った。しかし誰もいなかった。なんだ? 「お前ら、取囲め!」下から声が聞こえる。隠れることも忘れて屋根から下を覗いた。十数匹の手下が輪になり、中央の猫を取囲んでいる。大きなサルスベリが邪魔をして、ぼやっとしか見えないが、中央の
猫は特に慌てている様子はない。「取り逃がすんじゃないぞブンの仇、きっちり果たせ」いつの間にかおやっさんが仕切っていた。手下の輪は同じ方向にゆっくり回り、円を小さくしていった。斑のジローが身を低く構え、何度か後ろ足でステップきって猫に飛びかかった。猫は身軽にジローをかわし、そのままジローは民家の庭石にぶちあたった。中央にいる猫はピンと正座して、胸の毛並みを整えている。一体誰だ?あの立ち振る舞いからしてただ者ではない。強い気配は間違いなくその猫からのものだった。しかしそんなに俺とそっくりなのか。今度は名も知らない新入りが飛びかかったが結果は明らかだった。猫はふっと宙に浮いて、その下を新入りが駆け抜けた。毛の束がぶわっと広がり、雪のようにふわふわ落ちた。猫は右手を何度かふるわせ、斑の毛を払った。輪を作っていた手下達の戦意は失われ、みんなその場にしゃがみ込んだ。「おい!お前ら何をしている! さっさとやりやがれ 早くやっちまえ 早く」おやっさんの罵声は誰にも届かず、むなしく響いた。猫は一瞬身をかがめ大きく輪を越えて飛んだ。太陽に照らされたその毛色は青色で、美しく光った。そしてあくびをしてこちらを振り返った。下ではおやっさんが震えている。しかし目線はおやっさんに向けられたものではなく、確実にこちらを見ていた。あの猫、狙いは俺か? 「ついに来ちまったね」後ろで声がした。振り返らずともお浜さんだとわかった。猫を見つめたまま答えた。「ついに何がですかい?」猫は大きく伸びをして悠々と歩き遠ざかっていった。下ではおやっさんが薄ら笑いを浮かべながらをふらふらさまよっている。大勢いた手下達はバラバラに散っていった。かわいそうに庭石にぶつかったジローはまだ気を失っている。新入りは変な格好でうつぶせになり、鮮血を地面が吸っていた。猫は遠くなり、民家の角で止まり、またこちらを振り返った。冷たい視線が突き刺さりそうな勢いだった。「ついに何がですかい?」もう一度後ろにいるだろうお浜さんに尋ねた。しかし返事が返ることはなく、振り返るとお浜さんの後ろ姿が隣の屋根に飛んで消えた。塀に飛び降り、地面に降りた。おやっさんはまだ気がふれたように立ち尽くしていた。おやっさんは俺を見つけると、うめきながら後ろにさがった。「おやっさん大丈夫ですよ、あっしがジョーでごぜえやす先ほどの青猫はもう行っちまいやしたよ」おやっさんは少し安心したのかその場にかがんだ。民家の中から人間の少年が心配そうにこちらを見ていた。
意識を失っていたジローを何度かゆさぶって起こした。名も知らない新入りはかわいそうに無様に息絶えていた。おやっさんは廃猫のように何かをブツブツとつぶやきながらニヤニヤ笑っている。あの時お浜さんが言った、ついに来ちまったねという意味がまったくわからなかった。しかしとてつもなく大きな渦に巻き込まれているということははっきりとわかった。その真ん中に俺がいるいうことも。
もうおやっさんには挨拶もせず、民家の庭から離れた。通りを渡り、ねぐらだった石垣のそばの空き地に向かった。特に意味があるわけではなく。ただ考えたかった。考えたところが答えがあるわけでもない。そんなことはよくわかっている。人間の子供がうれしそうに近づいてきた。いつもならばおかしな顔をして笑わせてやったりもしたが今はそんな気にもならなかった。足早に子供から離れた。
「ジョー」 お浜さんの声がした。見上げると駐輪所の屋根にお浜さんがいた。
「なんですかい?いってえ」随分な言い回しだとも思ったが今は精一杯の返答だった。
「ついてきなよ」そう言うと身軽に飛び降りて、さっさと前を歩き出した。
「いってえどちらへ」後を歩きながら尋ねたがお浜さんは何も答えなかった。「お浜さん、ちょっと待ちな」そう言ったとたん、お浜さんは振り返り、そして恐ろしい形相で言った。
「だまってついておいで!ジョー」
それからは黙ったままお浜さんの後を歩いた。随分時間がたった気がする。真冬に近づく季節だが、太陽は温かく身体が熱かった。水が欲しいと思った。大きな通りは車が行き交い、自転車の人間が笑いながら横切っていく。見計らい大きな通りをお浜さんは渡った。慌てて後に続いたがもう少しのところで車にあたるところだった。公園の横の大きな建物には人間達がたくさんいて変なものを口にくわえて奇妙な音を出している。神経に障る音で早くそこから離れたかった。しかし人間という生き物はまったく呑気で羨ましい。意味のないことをうれしそうに延々と続ける。奇妙な音を出している人間がまさにそうだ。かといって別のタイプの人間はそんなに忙しくもなかろうと思うような奴に限ってバタバタと動いている。無意味に。まったく人間は馬鹿っぽい。そんなことを考えながら歩いているとお浜さんはとまっていて、ぶつかりそうになった。「お浜さん どうかしましたかい?」息切れしたまま尋ねた。
「ジョー 懐かしくないかい? ここ」
「懐かしいもなにもあっしは初めてで」お浜さんは少し笑って続けた。
「ジョーここはね、アンタが生まれた場所だよ」「えっ?」
「アンタが生まれた町さ」
人間が大きな黒い犬に引っ張られながら通り過ぎていく。犬は我々に気づき、バカみたいに吠えたてた。
「お浜さん、お浜さんは随分と親切にしてくれやした。流れてきてすぐにね。本当感謝しとりやす。お浜さんがいなかったらとっくにのたれ死にしてやしたよ、あっしなど。本当にうれしく思っておりやす。しかし姐さんは不思議なことが多すぎやすね、もうしばらく経つのにもかかわらず、あっしはお浜さんのこと何も知らない」 ビュンと風が吹き抜け温まった身体を冷やした。お浜さんはお地蔵様の前で寝転が
り、目を閉じた。「お浜さんはいってえ何者で?」しばらく黙って待ったが返事はなかった。「でしたらお浜さんはあっしの見方ですかい?それとも」確かに今までもそうだった。肝心なことは何も話してくれない。正直嫌気がさしてきた。
「では、あっしはこれで」
「アンタに見せたいものがあるのさ」
目をつむったままでお浜さんは言った。
そこは今にも朽ち果てそうな民家だった。決して物音をたてちゃいけないよとお浜さんに釘を刺されていたので慎重に後に続いた。なにやら俺に見せたいものがあるらしい。もう誰も住んではいないようだ。クモの巣が空間を占領していて身体中にまとわりついた。板の間はホコリや土砂が重なり、足音をうまく吸収した。ゆっくりゆっくり民家の奥へと進んだ。お浜さんの歩みがとまり、そしてこっちを見た。「そうっと近づいて奥の間をのぞいてごらん」蚊の羽音くらいの声でお浜さんが言った。一体何があるというのだ。こんな
薄汚い民家の部屋に。少しだけ引き戸が開いていて、片目で中をのぞいた。お日様はボロボロの布が遮断していて真っ暗だったがすぐに目は慣れた。何かの固まりがある。よく見ると生き物のようだ。ゆっくりと上下に膨らみが動いている。すると突然生き物が目を開いた。猫だ。鋭い目線がこちらを見た。深い緑の眼球が小刀のように俺を捕えている。身体が震えた。とてもじゃないが太刀打ち出来ない気配だ。おやっさんなど話にならない。自然と腰が落ちてしまった。「だれでえ」しわがれた年老いた声が聞こえた。「おい そこにいるのは一体だれでえ」そう言うと随分と咳き込んだ。お浜さんの手が不意に腰を触り、驚いた。「行くよ」そう言うとお浜さんは小走りでそこを離れた。気になったが後に続き民家を出た。外は明るく目がくらんだが先を行くお浜さんはすぐにわかった。お地蔵様の前でこちらを見るお浜さんがいた。「もうあっしから尋ねることはいたしやせん。思うにただならぬお方。今時あんな気配持ちの猫いるんでやすね」思ったとおりお浜さんは何も答えず、西を向いた。どうやら泣いているようだった。「さあ、まだ日は高いがあっしは向こうへ帰りやすよ お浜さんはどうされますかい? 最近やっとですよ 大きな通りを平気で渡れるようになりやしたよ。では 失礼しやす。ごめんなすって」変なものを口にくわえて、かんに障る音を出している人間達のすぐ横を通り、大きな通りも無事越えた。あすこらで俺が生まれたというのは事実なんだろう。そんな嘘をついて誰も得しやしないし、意味すらないし。お浜さんも訳ありなお方だろう。何か辛い思い出があったに違いない。どちらにせよ、もう何も尋ねることはない。後ろでお浜さんの声が聞こえた。知らぬ様子とも思ったが振り返った。「しっかり気をつけて歩くんだよ」大きな車が遮ったが確かにそう聞こえた。いろんなことが短い間に随分やってきた。頭の整理をすることすら出来なかった。しかしもうどうでも良い気分になっている。所詮流れの天涯孤独な身、今日生きることの出来る出物に出会えればシアワセなのだ。一度は組織の中で生きることも考えた。結局馴染めずじまいで終わってしまったが。仲間になれればと一瞬でも思った連中は今後ここを離れててんでばらばら生きていくに違いない。ブンや命を落とした下っ端達は気の毒なことだが。もうとてもじゃないが対処出来るような渦ではなくなっている。今夜か明日早くにはここを離れよう。西に向かい生き場所を探せばいい。寝床をおいていた草原には帰らず、自然とおやっさんのいる民家の方へと足は進んだ。またあの化け物みたいに強い猫に出会う危険はあったが、構わなかった。太陽は平等にここにも降り注ぎ、まるで平和な場所にみえた。ついさっき死闘があった場所にはみえなかった。まだおやっさんはそこにいて口から泡を吹いて遠くを見ていた。人間の子供が心配そうにおやっさんの頭をなでていた。
「あんたさんが情市朗だね」 不意に後ろから声がした。振り返るとそこにはあの青猫がいた。さっきまでこの場所で死闘を繰り広げていたはずなのに、傷一つなく美しい毛色の
猫がこちらを見ていた。今回はいつもの強い気配は一切なく、うっすらと笑っているようにも見えた。「何の用事だい?」「そんな毛嫌いしなくてもよろしいかと」そう言うと顔の下の毛並みを整えだした。「あんたのことは誰かも知らん ほんの一時だったが属してた組をめちゃくちゃにされたが、別段あんたに恨みなどない ましてや用事もな」青猫にそう伝えこの場を離れようと立上がった。「こっちに用事があるんでさあ」青猫はさっきまでの穏やかな雰囲気ではなくなり、例の強い気配を身体中から立ちのぼらせた。厄介なことになった。とうていかなう相手ではないかもしれない。しかしこれ以上命長らえる必要もない。「あっしに用事とはなんだい?」「ちょっと顔をかしてもらえねえですかい」そういうと青猫はゆっくりと振り返り歩き出した。いつの間にかおやっさんの手下が集まっていて口々に呟いた。「ジョー 行っちゃいけねえ やられちまう」「あいつは化け物だよ かないっこねえ」そんな情けない声を聞き流し、青猫の後に続いた。通りを越えて行き、青猫が振り返ったのは長い間ねぐらにしていた草っ原だった。随分と日が傾き、西は青と赤の混じり合った美しい空だった。人間が列をなして石垣の回りを走っている。風はなく、上ではカラスがひとたび鳴いた。
「情市朗・・・さん あんたにこの町から出て行ってもらいたいんでさあ」青猫に言われなくてもそうするつもりだった。しかし申し出を一つ返事で受ける訳にもいかなかった。「いきなり一体何を言ってやがるんだてめえは。出て行けと言われてハイそうですかとはいかねえな」こんな返答をすればすぐにどうなるかぐらい簡単にわかった。青猫は少し笑って答えた。「あんたはこの辺のチンピラとまったく違うことくらいあっしにはすぐにわかりやすよ。だから丁寧にお願いしたつもりなんですけどね」「俺が出て行かないといけない理由でもあるのかい?言ってみな青猫」「ひどい言い方だね。あんたの毛色はあっしのとそっくりじゃないですかい。まあそんなこたあどうだっていい。実はウチの叔父貴がね、あんたを消せって言うんでさあ」「あんたの叔父貴が誰だか知らねえが恨みをかった記憶などさらさらねえ」「ではではどうしても聞けないと?」「聞けねえな」目を離したわけではなかったが突然青猫が目前から消えた。「来やがる」次の瞬間、頭に激痛が走って目線先に血液が音をたてて飛散った。しまった!どこだ?どこにいやがる。背中を二度叩かれ、振り返ると鬼の形相の青猫が高く飛んだ。同時に毛が舞、鈍い痛みが全身を駆け抜けた。このままやられてしまうのか。青猫が着地したと同時に突進し、顔面に噛みついた。離れ際、右の爪を渾身で振り下ろした。毛が飛び、青猫の額から赤い筋が流れ落ちた。そしてしばらく睨みあったまま時間は過ぎた。「やはりあっしの想像した通りでしたよ 情市郎 あんたは強いね」そういうと青猫はまた飛んだ。見上げると美しい空に重なる青い毛色がとてもきれいだった。あいつが地面に着地する時、俺の命は終わるんだろうと思った。非常に冷静な自分でいることがおかしかった。ゆっくりと弧を描いて青猫が近づいてくる。「およしよ!」 悲鳴のような叫び声が聞こえた。ふわふわの毛をまとった肉体がぶつかり、吹っ飛んだ。お浜さんか。俺に刺さるはずの青猫の爪は別の毛並みを切り裂いた。かろうじて立っているという感じでこちらを振り返り、少し笑って倒れた。「お浜さん!」痛む身体を移動させ、のぞきこんだ。そしていつの間にかすぐ横に強い気配が無くなった青猫がいた。「母さん いってえどうして」 お浜さんは横になったまま目を閉じている。お浜さんは青猫の母親だったのか。横になったお浜さんの首元からは血液が流れ出ていた。赤い絨毯が広がっていくのをみて先日のブンを思い出した。青猫は心配そうに覗き込んでいる。青猫も額から血が滴っている。大きく咳き込んだあと、お浜さんは話しだした。「ちょっと聞いておくれよ 二人共
ジョーにはしっくりいかない付き合いで悪かったね。許しておくれよ。この子はね、せがれなんだよ。ほら、さっき古い人間の家で猫に出会ったろ。あれがこの子の父親でね。もう長くは生きられないだろうけどさ。そしてねえジョー、お前さんも同じ、あの老猫の息子だよ」「お浜さん わからねえな 天涯孤独だと思って今まで生きてきやしたし」「ジョーは腹違いのこの子の兄貴だよ」そういうと大きくまた咳き込んだ。
「お浜さんよ もう話さなくて結構だよ もうわかったから」
「母さん、なぜ言ってくれなかったんですかい?そんな大事なこと。わかってればこんなことには」お浜さんは目は開いているものの違う世界をみているようだった。「ミツナリ お前があたいのお腹にいる時にね 老猫の前妻がつまらないことで疑いかけられてね、手下に殺されたんだよ。子どもを生んだ直後のことでね、あたいもさ何故だかわからないけどさ生まれたての子どもを一匹くわえて、走って道を越えたんだ。でもね どうしてそんなことをしたんだろうかねえ」いつの間にかお浜さんは息をしなくなっていた。お浜さんは目を閉じたまま少し笑っているようだった。
身を切るような寒い空気の中、真夜中の町には人間も車も同種の存在も誰もいなかった。ただ道を照らす橙の灯りがよけいに淋しくみえた。「情市郎さん これからどうなさるおつもりで」数日経ってそれぞれの傷はほぼ癒えていた。「俺はこの町に残るよ。ミツナリ、お前はどうする?」「あっしは行きます。どっか全然みたこともないところで暮ら
しやすよ。親父も消えてました。どっかに行ったか連れていかれたか。母さんも土の下、もうここにいる用事はありやせんし」 「そうか お前と一緒に暮らしたい気持ちも少しはあるが、そうもいかねえか」 「でも情 いや兄貴。兄貴はどうしてこの町に?」 「たいしたことじゃあないけどよ 俺は母親のこと知らないんだよ。もちろんそうだよな 生まれた直後に亡くなったんだからね。多分今もこの辺りで眠ってるんだろう。笑ってくれてもかまわねえが 本当は生きていて、ひょっこり出会うような気がしてね。いい歳しててね恥ずかしいが母親に会いたいんだよ。せめて会えなくてもよ母親が暮らしたこの場所で俺も生きたいと思うんだ」
「必ず生きてまた会いましょうね。兄さん」「達者でな」ミツナリの後ろ姿が橙の灯りに照らされ小さくなっていく。姿が消えてしまう前に細道へ歩き出した。ここはおやっさん
のシマで出て行くつもりだったが気が変わった。もう小さないざこざなど起こるはずもないくらい皆ばらばらになった。これでよかったんだ。小さな身体の同種同士が闘ったり、殺し合ったりなど大いに馬鹿げている。さてと今夜はどこをねぐらにしよう。深夜だというのに人間の住む家から大きな笑い声が聞こえた。もうすぐに年が変わる。 番外編へ続く







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